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「無常ヲ告グ夜」は2011年夏コミにおいて配布した無料冊子です。 弓士特攻パロ「夜這星」の部分抜粋となりますが、掲載されるか否かは現状では未定です。
ネタバレ回避の為、下記説明は「夜這星」本編と若干異なる場合があります。 戦中パロディとなりますので、ネタ的に大丈夫かの確認としてお読みください。

無常ヲ告グ夜 -夜這星プレビュー版- の登場人物

衛宮士郎
両親死別の後、七歳で縁故あった衛宮分家に引き取られ次男となる。 飛行予科練に入ったものの事故の影響と特殊技能が認められ整備科へ転属。 現在は皇国海軍二等整備兵曹として冬木基地に配属。
衛宮アーチャー
衛宮の分家筋の移民二世だが故あって帰国、衛宮分家の嫡子に迎えられる。 皇国海軍兵学校を首席卒業後は海軍航空隊に進み撃墜王にもなったが、ある時期に上官に反論して出世の道が断たれ、教官や基地付き任務となる。 英語が堪能で機械に強く、自ら整備や改造をすることも多い。 現在は皇国海軍中尉として冬木基地に配属。
柳洞一成
士郎の親友、飛行予科練時代の同期で同室で主席。 冬木基地に配属されて士郎と再会。 慎二の事は士郎から「頼む」と言われた為に仕方なく付き合ってやっている様子。
間桐慎二
士郎の尋常中学校からの親友、飛行予科練時代は同期で同室で次席。 冬木基地に配属されて士郎と再会。 一成の事は一応ライバルと思っているが町遊びにかけては同期内で一番と自他共に認める色男。

補足の人物説明

ランサー
アーチャーの兵学校時代の同期で次席。 アーチャーと共に撃墜王として名をはせ、現在は皇国海軍大尉として海軍省に配属されている。
藤村雷画
士郎より年下の少年、冬木市深山町にある衛宮本家の近所に住む極道一家の息子。 色街や闇市を取り仕切っており士郎達に何かと便宜を図る事も。

 たまたま重なった飛行兵二人の休日に合わせて気を利かせたのか、街へ買いだしの用を軍曹に頼まれた俺は三人連れだって深山町へ繰り出した。色街近くでは雷画少年と会い、ついでだから見て行けと映画小屋へ押し込められたりした。
 その帰り、新都へ渡る長い石橋へと向かっていた時だった。気心知れた仲なので今更なタメ口でくだらない笑い話に花を咲かせていると、後ろから見知らぬ声に呼び止められた。縁の無いたおやかなそれに初めは人違いかと気に留めなかったが、二度も声をかけられると流石に足が止まった。
「あ、あの……すみません」
 おかっぱにセーラー服とモンペ姿の少女だった。襟は一本線なので衛宮の家からも近い一女の女学生だろう。それは一成と慎二もわかったらしく、お前の知り合いか、というようにこちらを見てきたので慌てて首を横に振った。
「いきなりすみません。新都の兵隊さん、ですよね?これを、中尉さんにお渡ししたくて……」
 頬を赤らめ、これ、と言う少女の腕には晒し縫いの慰問袋らしきものがあった。大事そうに抱えている辺り、当人からのものと見て間違いない。
「えっと……それは市に預けて貰わないと」
 慰問袋は冬木市がとりまとめて各部隊に送っているから、と言うと女学生の双眸が潤み始めてギョッとした。
「あー、もう衛宮は鈍いな!」
 大げさに天を仰いで見せた慎二が俺の肩を押しのけて女学生の顔を覗き込む。
「中尉って言うと、どっちの?」
「おい間桐、規則違反だぞ」
「バレやしないさ、ボクたちが黙ってればね!それで、どっちの中尉宛てなんだい?」
 慎二に訊ねられて困り顔の女学生に一成があきれ顔で「俺は何も見ていない聞いていない」と呟きながら背を向ける。
「あの、白い髪で背の高い……」
「なるほどねー。キミ、直接手渡そうとして断られたクチだろう?」
 ハッと顔を上げた女学生の表情からは慎二の言葉が図星だということがよくわかった。控えめに見えて意外な行動派らしい。
「運が良いねキミ、こいつ、その中尉サンの弟だよ」
「ちょっ、慎二ナニ言って」
 慎二に肩を引き寄せられて抱えた荷物をとり落としかけた。睨みつけてもどこ吹く風で、慎二は女学生と勝手に話を進めていく。
「ああ、道理で……以前、中尉さんと一緒に歩いてらっしゃるのを見かけた事が……何卒よろしくお願いいたします」
「それで声を掛けてきたのか、ふぅん?いいよ、中尉に渡しておくよ」
 慎二の手に女学生の手から慰問袋が手渡されるのをこの世の終わりを見る思いで眺めながら、どうするんだよソレ、と恐らくは自分に降りかかる面倒事に首を垂れた。
「アーチャー中尉はマジ、エムエムケーだね」
 下駄をカラコロと馴らして去っていく女学生を横目に慎二が口元を歪める。それに同調するように一成も大きくうなずく。
「MMKってなんだ?」
「もててもてて困る、ということだ」
「ああ、なるほど。でもなんであんな女性に無関心で無愛想なのがモテるんだよ」
「……衛宮、それはな」
「ホント衛宮はお子様だな!柳洞、衛宮に言うだけ無駄だよ、わかりゃしないさ」
 わかんねえ、と呟いた俺にニタリと笑い慎二は慰問袋を軽く振る。何やら沢山入っているようで重たげにゆれていた。
「いいじゃないか、あのおカタい中尉殿のロマンスなんて格好の噂の種だろう?」
「間桐が受け取ったことがバレたらそちらの方が噂の種になると思うが」
「うるさいよ柳洞。規則なんて誰が守ってるんだい、みんなやってることだろ。衛宮だって前に言ってたじゃないか、中尉に女っ気が無さ過ぎるって。まずはキッカケ作りだよ」
 衆道のケがあるなら無意味だろうけど、と笑いながら慎二は慰問袋を俺に投げてよこした。柔らかい物と硬い物が入っている。触った形状からして危険な物は無いようだが、果たしてこのまま渡してしまっても良いのだろうか。
「やっぱりコレ返した方が……」
「渡しておけ、衛宮。今更返しても先方を傷つけるだけだ。受け取るかどうかは中尉殿に任せれば良い」
 去り際の綻んだ笑顔は厳しい戦況を知る俺たちにはひと時の憩いに違いなかった。きっと色々な物を切り詰めた生活からこの中に詰め込んだのだろうあの少女の想いを今更無碍にすることもできなくて、俺は一成と慎二の後を追って歩きはじめた。

「コレ」
 遅い夕日が射し込む中、毎度ながら自ら機体に潜り込んで作業をしていたアーチャーは、俺の声に気付いたのか機体の下から這い出てきた。
「お前にだって」
 慰問袋を押しつけた俺を怪訝に見た男は、袋に目を落とすと珍しく困惑の表情を浮かべた。
「あの娘か……どこで会った」
「深山町からの帰り」
 面倒臭そうにため息をつくと俺に押し返してきた。
「整備兵……いや、飛行兵でもいい。回してやってくれ」
「中、見ないのかよ」
「見てどうなるものでもないだろう、私は何度も断った。物品の類は支給のもので足りている。それに、慰問の返事など要らんだろう」
 すぐさま機体に潜り込むアーチャーは不機嫌そのもので、これ以上の口出しは無用だと引き下がることにした。ああなるとてこでも受け取らないだろう。
 心の中で詫びつつ巾着の口を開けると案の定、薄葉の便箋の入った封筒が入っていた。それをポケットに入れて石鹸の類は汚れる仕事の多い整備兵の宿坊へ、他は飛行兵の宿坊に回した。どちらでもアーチャーと女学生の話は既に広まっていて、慎二の口の軽さにめまいがする。
「やっぱり受け取られなかったか」
「んー……あの子には悪いことしちゃったな」
 下賜された物の分配に混ざらない様子の一成相手に首肯して見せると、反対にため息をつかれた。
「あの娘は中尉に渡したかっただけなのだろう、どうこうなろうという気は微塵も感じられなかった。たとえ経由したものでも渡せた事で満足が得られただろう、衛宮が気にする事じゃない」
「だったら良いんだけどさ」
「もっとも浮いた話の一つも無い中尉殿にも問題がある。異貌とはいえ異人に慣れた冬木で、あれだけの美丈夫ならもしやと思う娘はいくらでもいる。一度、芸者でも連れて歩いてみせれば諦めのつく娘もいるだろう」
 海軍士官が縁故のない娘を連れて歩くのははしたない事だという常識のもと、玄人の芸者であれば良し、というこの世の中だ。女に興味が無いのでは、などといううわさも一気に払しょくできるだろう。
 もし、俺とアーチャーの本当の関係がバレたら?否、そんなの冗談じゃない。ため息が重苦しく漏れ出た。
「む、もうこんな時間か。衛宮も早く戻れ、明日こそ非番なのだろう?」
 俺の非番はアーチャーといつも重ねられていて非番には二人して衛宮本家に戻る、それは既に周知の事だった。気を利かせて言ってくれたのだろう親友の言葉が今は煩わしささえ伴う。
「ああ、それじゃ……」
 宿坊の前で一成と別れて外に出ると、夕闇がもうそこまで迫っていた。丘を掘り下げて作った整備場にはまだ漏れる明かりがあって人がそこにいることを知らせる。燃料調達の問題もあって当面の訓練飛行の予定は無い、どれも一度は整備を経ているのできっと改造に精を出しているアーチャーしか残っていないだろう。
「まだやってんのか?」
「持って行ったか」
「ああ、みんな喜んでた。……これくらいは『中尉様』が持っておくべきだろ」
 やわらかい女字で『中尉様』と書かれた封筒を手ぬぐいで顔を拭いていた男の胸に押しつける。ほんのりと良い香りがするのは文香のせいだろうか、油と鉄臭い臭いに混じって切ない気持にさせる。
「……待っていろ、すぐに準備をする」
 おざなりに封筒を受け取った男は手ぬぐいを洗濯桶に投げ入れて踵を返した。ああ、やっぱり機嫌が悪い。

 本家に戻る途中、泣く赤子をやっと背負うほどの幼い少女があやしているのに遭遇した。年の頃からいって父親は兵隊にとられているだろう、母親は工場に働きに出ているかもしれない。それでも少女はねんねころりよと歌いながら子供をあやす。あんな光景、特攻基地に指定された俺たちの基地の若い飛行兵達には縁のないものかもしれない。
 未婚といえば目の前を歩く男もそうだ。本家の主の話ではどれだけの良縁も受けようとしないらしい。曰く、死ぬつもりの男に嫁ぐ娘が可哀そうだ、とかなんとか。
 普段は死ぬなと少年飛行兵に口酸っぱく言う同じ口で何を言うのだろう。本人に結婚の意思がないどころか、女性自体に興味がないのか。だから俺をあんな風に……
「どこまで行く」
「え、ぁ……ああ。悪い、考え事してて」
 いつの間にか本家の門を通り過ぎていた。あきれ顔の男は門の前で俺を待っているらしい、さっさとしろ、と苛立たしげに踵を返す。その後を追いながら、これからの事を思い視線を落とした。
 母屋の主に挨拶を済ませいつも使う離れの部屋へと入ると、途端に後ろから抱きすくめられた。首筋を吸われ、ぬめった舌がそこを這う。今日は買いだしだけで作業は無かったとはいえ暑さゆえに酷い汗をかいている、自分でもわかる臭いに男を押し退けようとしてみたが無駄だった。
「……ハッ」
 官能の気配を感じ取った身体が一瞬の緊張の後に弛緩し始める。夜でも止まない蝉時雨、カナカナという音にまじって吐息が耳につく。
「水浴びが……」
「構わん」
 褐青色の服が見る間に肌蹴られ、夏用の襦袢もろともはぎ取られた。中に褐色の手指が潜り込む。汗ばむというより湿った肌にざらついた指先が這いまわる。決して心地好い感触ではないだろうに、飽きもせず撫でまわし、そして汗で髪が貼りついたうなじを舐めまわされる。
「臭うだろ……」
 男は答えず、俺を抱きしめていた腕を緩めると半回転させ、今度は口を吸ってきた。塩辛い舌が触れると、一気に頭がのぼせあがった。
「いやだ……」
「お前のイヤは好いということだろう?」
 くつくつと笑う男は足払いをかけ、そのまま俺を畳に引き倒した。咄嗟の受け身は効いたものの、間髪いれず呼吸をその唇に奪われた。
「鞘当てか、嫉妬か……いや、どうでもいい。お前は人の感情の機微に疎い、今更だ。どうせ何も考えていなかったのだろうからな」
 考えなかったわけがない、この男が慰問袋を受け取らない事などはなからわかっていた。慎二達は面白半分とはいえ女学生の気持ちを無碍にできなかったのもあるだろう、受け取るだけで女学生の気持ちは昇華されたに違いない。それを押し付けられたのは確かだが、この男が慰問袋を受け取らない事を俺はこの目で確認したかったのかもしれない。
 嗚呼、本当に酷いのは誰だ。
「……あれは」
 口を吸われ言葉が途切れる。きっとこの男は俺の心など見透かしてしまっているに違いない。汗でしっとりとした髪を指で梳かれ、何度か離れては触れる唇が濃密な音を立てる。紫墨を薄く引いた色の双眸が間近で俺を見ていた。
「嫌がらせ……だ。明日から、お前……噂の的だぞ」
 視線をそらすと耳たぶを甘噛みされる、熱っぽい吐息で「そうか」と含み笑いを直接耳に吹き込まれて背筋が震える。
 噂にされようとこの男が気にするタチでないのはとうにわかっている。兵学校を主席卒業したにも関わらず出世コースから外れた時でさえ平然としていたのだ。素人相手の浮いた話とて海軍士官にとっては『男の名誉』でしかない。
 アーチャーに対しての嫌がらせなんかじゃない。人目もはばからず切なる想いを叶えようとしたあの大胆な女学生への、内心での嫌がらせだ。いっそ潔い彼女に比して己がどれだけ矮小で愚かなことだろう。噛み締めた唇は男の舌で解かれていく事がどれだけ俺にとって甘美で幸福のひと時であるか、この男は知っているのだろうか。
 短くついた吐息も許さないというように何度も口吸いをされ、肩での呼吸すら苦しくなる。汗蒸した空気はどろりと身体にまとわりつき重い枷のように畳に押し付けてくる。抗う気持など初めから、ない。見せかけの抵抗がこの男の情欲に火をつけると知っていて、そしていつか飽きられるのではないかという恐怖を押し殺す為に、本意ではない行動をとってみせる浅はかな俺。
 こんな俺もきっと見透かされているに違いない。けれど一度張ってしまった虚勢を崩すにはもう時間が経ち過ぎた。一緒にいた時は少ないとはいえ、十年という歳月は決して短くない。
「お前はそれでいい」
 どこか知った風な口ぶりでアーチャーはそう言うと前髪の払われた額に接吻する。それにどんな意味が込められているかなんて知らない。俺は、この男しか、知らない。
 雨戸も、硝子戸も、障子さえも開け放したまま薄暗い星明かりの中抱き合い、吸い合う。ヒグラシすらも鳴く事を諦める宵の口、男から滴る汗が畳に落ちる音が吐息にまじって一層濃密な気配を漂わせる。
「お前、こん…ぁ、時……だけ」
 いつも俺をダメ出しして否定ばかりするくせに、こんな時だけは肯定してくるなんて卑怯だ。いや違う。この男の言葉はいつだって正しい、正しすぎて反論してしまう。俺を認めさせてやりたい、その気持ちがいつから変わってきたのだろう。
 自覚したのは、全軍特攻化が決まった頃だ。特攻を「死ぬ為に乗るのは莫迦のする事だ」そう言った男は同じ口で「それでも私はゆかねばならんからな」と清々しく笑って見せた。いつか理不尽な命令で死ぬ事を受け入れている目でそう言ったのだ。
 戦闘機の改造に取り組むのもただ改造狂いというわけじゃないんだろう。特攻を無謀で無駄だと上官に真っ向から言いきった男だからこそ、特攻する以前に砲火を浴びて無駄死にさせないように機動性能を上げようとしているのだろう。
 この男には無駄が無い。普段の言動はもとより、昇進を放棄したのも己の能力を発揮するには十分な地位だと判断していた事もあるだろう。そんな合理的な男が唯一持ち続けていた無駄が……俺だ。
 切り捨てれば良い。兄弟といっても所詮は血のつながらない他人だ。兵学校主席の士官と技術下士官だ。女性に持て囃される男と器用さ以外に取り柄のない肩書だけの小僧だ。
「わ、かんね……よ」
 わかりたくもねえよ、自分の気持ちなんて。失う事を知って気付く想いなんか、成就の叶わぬ望みなんか、それこそ無駄だ。俺を構わなきゃいいのに、芸者と遊んで士官らしく振る舞えばいい、その方がきっと楽しいに違いない。俺なんかといるから尚更「赤毛贔屓の外人中尉殿」などと揶揄されるのだ。
「わからんでもいい」
 そうやってまた肯定する、俺が何を考えていたかなんてわからないだろうに。いつもの厳しい口調はどこへいった、なんでそんな優しげな声音を使う。昔みたいに邪険に扱ってくれればいいのに。
 糖蜜のように絡む舌が離れない。蜘蛛の餌食のように絡み合う四肢が放せない。布と畳の擦れ合う音が止まらない。
 乳房のない胸を撫でまわす手指に翻弄される。浮いた話などとんと聞いた試しもないのに房中の艶事はきっと上手いと感じさせる手管。誰がソレを教え込んだのかと考えるだけで苦しさが増し、それを自覚して心はさらに沈む。
 それでも俺は口をつぐむ。この男もきっと本心の事など何も言わないだろうから。それが俺たちの在り方なのだから。
「ぁ…んぅ……っは、ふ」
 男の手のひらが俺の肩に残る引き攣った火傷の痕をなぞる。アーチャーを追いかけるという夢を断った悪夢を、この男は何度もなぞる。顎を掴まれ覗きこまれた双眸はあの日焼けてより薄く色の変わったそれ。
 何度も無理だと言われそれでも突き進んだ道は、あの時ふつりと途絶えた。不幸な事故、という言葉では納得しきれないあの事故の後、予科練から整備科への転科を余儀なくされたあの時、この男は俺の身体を組み敷いたのだ。
 特技認定で二等整備兵曹になったものの、もう一度あの大空を翔ける夢は叶わなくなった。この男と飛ぶ夢は打ち砕かれた。
 じわりと滲み雫を垂らすのは汗と、他の何か。間近の男はからかいの色を含みながらも穏やかな、それでいて熱を帯びた眼差しで俺を見る。
「お前の眼は琥珀だな」
「……ッ」
 さわり、と腰を撫でられて仰け反る。男の視線から逃れるように瞼を閉ざせば口付けがそこに落ちてきた。
「お前の眼はそのまま私を見ていろ、琥珀の中に俺を埋ずめておけ。記憶なぞ、すぐに劣化する……」
「な、に……いって」
 喘ぐ吐息で男を再び見やればいつになく穏やかな表情で、男は口を開いた。
「冬木から特攻が出るぞ」
「……なん、だって?」
「正式な下達はまだだがな、昼に内示があった。海軍省もとうとうヤキがまわったと見える、大佐殿の上申も無駄になった」
 鼻先が触れ合う距離で、男は俺をまっすぐに見下ろしていた。咄嗟に言葉が出ない俺を置いてすぐに言葉を繋げる。
「今度こそ私もゆく、後は任せるぞ……衛宮二等整備兵曹。機体の事にかけてお前以上の腕はない」
 私をおいて他にはな、と嗤う男はトンと額を合わせてくる。
「う…そだろ、オマエ、特攻の栄誉なんてさせるかって、大尉がそう言ってたじゃないか!」
「…………八月十五日」
 日付を言われると反射的に日数を換算してしまうのが整備兵のサガだ。近くはないが遠くもないその日付に何の意味があると言うのだろう。
「それが俺の命日になる」
 卑怯な男だ。そうして俺の気を逸らさせておいて優しく口付けるなんて、卑怯じゃないか。
「ハ……はぁ……ッ、は……」
 ひざ丈の略袴がいつの間にか引き下ろされ、汗ばんだ手のひらがそこを揉みこんでいた。男から滴る汗が俺の頬に落ちるそれがまるで涙のようで、それなのに表情は過ぎる程の穏やかさで、俺は胸が締め付けられるような思いに囚われる。
 この男が死ぬ。今まで何度も考えた事なのに、いざそれが蘇ると恐ろしくてならない。空襲など縁も無かったこの冬木で過ごすうちに死というものを何度も忘れかけていた。
 俺の眼が琥珀だと、その中に埋ずめられるというのなら、そうしてやりたい。劣化しないそこへ男を閉じ込めてやりたい。
「清々するだろう、口うるさいのがいなくなるのだからな」
 埋め込まれる指が熱い、肉感的な痛みは戸惑いの中でぼやけて消える。穿たれる心が痛い、逃れようのないそれは血潮を噴き今にも萎んでしまいそう。
 伸ばした俺の手はみっともなく震えていただろう、開襟の略衣の釦がなかなか外せなくて男を笑わせてしまった。命ぜられたわけでもないのに衣服に手を掛けるのは初めてだったが、それを知ってか知らずかアーチャーはおかしげに俺の指先を見続けていた。
 寛げられた胸元から褐色の胸板があらわになり、じっとりと滲む汗に舌を這わせた。美味い物の筈はなかったが汗をかいているせいかそれが美味く感じられるのが不思議だ。
「どこでそんな仕草を覚えた」
 からかいの言葉も今はもうどうでも良かった。男の輪郭をなぞるように隆起する胸を唇でたどり、凹凸を舌で舐めとった。いつぞやこの男を変態と罵った言葉は今や自分に跳ね返ってきているだろう。
「どこだっていいだろ」
 誰に教わったかなんて戯けた問いだ、ただ男の行為を真似ているほかにない。物ごころつくころにはこの男しか見えていなかった。そう、俺は初めからこの男しか見えなかったのだ。
 認めざるをえないそれを咀嚼しきれば心はずいぶんと浮上した。言葉に出す事はできずともこの男の欲は俺に向けられている、それだけでいい。それ以上は望んではならない。先の見えたこの関係はもはや数えるばかりで終わってしまうのだから。
 だから、俺は動いた。アーチャーの肉体を見上げ、肌を撫で、頬をよせてやわく食む。胸から腹に至るくぼみに舌を這わせれば男の熱い吐息が漏れるのを感じる。
 俺を感じているかアーチャー。目に入った汗が染みて痛くて涙が出てくる、間が悪い、これじゃまるで俺が泣いてるみたいだ。こんな顔を見られたく無くて伸びあがって男にしがみつく。汗の匂いが混じり合って頭がクラクラした。
 俺の脚の付け根に男のゆるめられた略袴の下、エフユーを押し退けて覗く熱が触れてくる。何度も受け入れたそれが今更ながら愛おしく思えて腰を擦り寄せた。肉欲が直接触れ合う快楽よりも、男が快さげに目を細める気配に安堵する。
「おまえ、が…いつ、いくか……なんて、俺には、関係ない」
 成就できないこの想いはいつか途絶すると知っていた。それが前回は遅くなり、今回に至っただけの事だ。
「そうだ、お前には関係ない。私がどこでいこうと……何の為にいこうと」
 俺の為……になんて言葉は欲しくない、俺のせいで死にに往くなどたまったものじゃない。乱されっぱなしの心は、たった一つその言葉だけで全てを閉ざしてしまうだろう。それならばいっそのこと……
「いきたい」
 何処へ、とも告げず漏らした言葉を男はどう受け止めただろう。擦れ合う熱はやがて弾け、白濁した汚物を撒き散らすのだ。

 逐精の後の余韻はいつになく深かった。アーチャーの手練に掻き乱されるそれと違い、自ら擦り付け合うのは予想以上の焦れったさと同時に事後の充実感を与えた。
 ナカを抉られる強烈な感覚に翻弄される時には気付かなかった最中は男の息遣いや表情が見て取れ、この男も俺と同じように感じているのだろうと思うと鳩尾の裏が温かくなるような気さえした。
 ぬめる白濁が呼吸に合わせて腹を滑る、畳を汚す前に拭ったそれはどちらのものだろう。舐めてみると男に尺八させられた時と変わらぬ、塩辛い苦味が舌に残る。ふと視線をあげると男が俺を凝視していた。
「なんだよ」
 アーチャーはそれに答えないまま、唇を俺に触れさせた。少し震えているような気がしたのは、俺の気のせいだろう。この男はいつだって、いつまでも、すかした野郎だ。
「士郎……」
 名前だけ呼ばれたけれどそれっきりアーチャーは口を開こうとしなかった。手ぬぐいを投げてよこすと蚊帳張りをおろし褌一枚で庭の井戸へと向かった。
 俺はあと何度あの背中を見るのだろう……再び痛み始めた胸は、やがて甘い疼痛に変わり、腑へと沈みこんでいった。